――いったい俺に何があるっていうのさ。
 学バスに揺られながら、想は溜息をついた。肩にくいこむリュックが重い。ノートと筆箱と財布しか入ってないのに、である。講義形式の授業にテキストは皆無だ。
 カタカタとタイヤがでこぼこ道を踏みつけ、その反動が学生と運転手を襲う。想は吊り革を握る力を強めた。 五時間目終わりと雨天のために車内は“おしくらまんじゅう”をきめていた。舌打ちしたいにも、歯と歯の間に舌を入れた瞬間、押されたら終わりだからしない。
 車が横を通り、しぶきが窓を叩きつけた。
 ――うんざりだぜ。世界よ、なくなれって感じだな。
 台風よろしくのこの状態に喜ぶ人間はよっぽどの馬鹿だ。
「あれ〜? 吉岡先輩じゃん」
 正面から急に男の声が飛んだ。“吉岡”とは想の苗字だ。声の主に視線を移すと、見知った茶髪男がいた。願ってまで、会いたくない部活の後輩だ。彼――石野哲夫は酔っ払っているのかと疑いたくなる呂律で、想はつくづく仏滅だと思った。
「お前何してんだ?」
 心なしか小声になった。何って? と石野が口の端を上げる。すっとぼけているのが丸分かりな顔だ。
「コカインか?」
「ああ。覚醒剤。切手型の」
「よく教師にバレなかったな」
「へへ、隠れてするのって得意なんすよ」
 石野はへらへらと笑いながら、窓を向いた。
「先輩は?」
「やってねえよ」
「もったいない」
 想は口をへの字にまげて、石野を見た。彼はバスが目的地につくまで、へらへらと笑いながらスコールを見ていた。

「びしょぬれじゃない! 馬っ鹿じゃないの!」
「うるせえ! 怒鳴る前にタオルよこせよ」
 傘はさしたのだが、斜めから降る雨には勝てなかった。そのおかげで、皮のジャンパーもジーンズのズボンも、靴だってぐちょぐちょに濡れた。
「絶対そのままで入ってこないでよ! 入室禁止! 乾くまでそこにいろ!」
「んだと! お前ん家じゃないだろーが!」
 靴をぬぎかけていた想は、そのまま固まって叫んだ。
 と、白いタオルが前方から飛んできた。想はそれを受け取り、肩を震わす。喜びではなく怒りでだ。
「チセ! これ台所専用だろ! 柄つきの物よこせよ!」
 怒気を込めて、手を伸ばす。「くれ」のポーズだ。チセと呼ばれた女は眉を吊り上げながら、ブルーのタオルを投げた。というか投げつけた。
「細かいのよ、想は!」
「ああ? 文句言うなら来んな! 今すぐ家帰れ! 二度と来んな!」
 がっしがっしと頭を拭く想にチセは台所の蛇口をひねった。水の音が鼓膜を叩く。外気に比例して冷たいだろうそれを、銀のボールに注ぎこむ彼女の姿が見えた。しかも無言。
 悪い予感が過ぎった。タオルを肩にかけ、あわてて傘を手にする。
「心が狭いのよ、あんたは!」
 怒声と一緒にチセがボールにたまった水を想に向かって、浴びせかけた。
 ぼんっ! という音を出して傘を開き、間一髪で水をふせぐ。
 だが。
 ばき、べき、ぼき。
 玄関の幅の狭さに傘の骨が折れた。
「お前のせいだ」
 あまりの不意打ちに想はチセよりも自分の手元を見ながらうめいた。
「想のせいでしょ。 私関係ないもん」
 彼女は小さく欠伸をした。
「しらばっくれるな! お前本当に俺の妹か? 誰に似たんだ誰に!」
 必死に傘を閉じようと想が苦戦をしいられている前で、チセはテレビをつけた。兄の声など無視だ。無視。ぱっと画面が明るくなり、爆笑問題が映る。“爆笑おすピー問題!”のオープニングの音楽が……聞こえてこなかった。
「?」
 チセは首を傾げて、リモコンでボリュームを上げた。確実に音量を上げているのに、ブラウン管はうんともすんとも言わない。ロングの髪を揺らして彼女はリモコンを持ったままテレビに近づいた。
 傘との格闘に勝った想がそれを見て、声なき絶叫をする。靴を脱ぐと床が濡れるのもかまわずに、妹に駆け寄る。意味も分からず、チセはボタンを押しまくっている。
 想は血の気が引いた。乾ききっていない手でチセの腕を引き寄せ、ブラウン管に背を向けさせる。彼女は不審な目で見上げてきた。
「お腹すかない?」
「は?」
「金だすから、何か作ってよ」
 懸命に笑顔を心がけているが、実際顔が強張って笑えているか想は不安を感じた。
「チセの料理って美味いんだ。口に合うっていうかさ。うちの大学の学食をお前にまかせたいね、俺は。うん、それくらい好きなんだよ」
 口元が引きつっている兄の笑顔に、チセは半眼を送っていたが、不意にやめると立ち上がった。
「何がいい?」
「へ?」
「お腹すいたんでしょ?」
「ああ……。じゃぁ、秋刀魚と味噌汁」
 答えて、想はテレビのボリュームを下げた。
「あるの?」
「え?」
「秋刀魚と味噌汁の具」
「ああ……。ない。悪いけど買ってきて。金は後で払うよ」
 想は苦笑を向けた。チセはむすっとした顔で眉を微妙に上げて、想を見下すまま動かない。
「何?」
 向き直って尋ねた声が裏返った。
「別に」
 言うと玄関まで歩き、彼女は靴をひっかけて、傘を片手にノブを握り締めた。
「想……」
「ん?」
「……ちゃんと拭いときなさいよ」
「え?」
「床!」
 強く言葉を言い捨てると、チセはドアを勢いよく閉めた。彼女のいなくなった空間、真っ白なドアのみが想の目に映った。
 ハッと我に返って、ビデオの取り出しボタンを押す。ウイーンと機械音がして、ビデオデッキの入り口から一本のビデオテープが出た。
“時田薫の全部見せちゃう”。それが題名で副題は口にするのもはばかられる。
 要するに、エロビデオだ。
 想はそれをタンスの奥にしまった。深く息を吐く。
 ――焦った。もろに。
 冷や汗をかいてしまった。
 スロモーションに動き、テレビをきって、リモコンを横に配置する。濡れた服を脱いで、洗濯機の中に放りこんだ。床を拭いて、鍵を閉め、風呂を沸かした。
 雨の音がひどく鼓膜を叩いた。

 想は近くにあった本を手に取って、ぱらぱらとめくった。読む気がない証拠だ。
 チセはまだ帰ってきていない。よく想の家に来ていたので、周辺には詳しいはずなのだが。
 ――迷ったか?
 ベットに体を沈ませながら、思う。
『想……』
 不意にチセの声が脳裏を過ぎった。
『……ちゃんと拭いときなさいよ』
 ぼーと天井を見つめた。
“トゥルル トゥルルル”
 携帯がなった。ボタンを押して、耳元にもっていく。中年の男の声だった。
「はい。吉岡チセは妹ですが。……はい、ええ。……はい」
 落ち着いて聞いてください、という男の声に返事をした直後、想は浮遊感を覚えさせられた。
 何を言って電話をきったのか覚えていない。ただ必死で教えられた場所まで駆けた。

 その日、一人の大学生が死んだ。深夜の一時半だった。交通事故。いや、もっとたちが悪い。つまり、ひき逃げだ。
 新幹線を飛ばして静岡から来た両親は泣き崩れた。声もかけることができないくらい泣いた。人ってこんなにも涙を流せるものなんだなあ、と想は思った。
 想は頬を濡らすことはなかった。両親にすわれたのか、それとも悲しくないのか、理由は分からないが、涙は出てこなかった。

 チセが他界してから、葬式などの関係で想は静岡へと戻った。ひき逃げ犯はまだ見つかっていない。
 火葬までそこにいて、チセの遺骨に手を合わせると、想は大学のため東京に戻った。
 いつもの生活が始まる。ためになるのか分からない講義を聞いて、フォークソング部で放課後をつぶし、誘われれば飲みに行く。
 そこにチセはいない。いなくても、想は一日を過ごせた。
 けど。
 部活の帰りに、見上げた夜空は雨天でもないのに真っ黒だった。都会では星が見えないって本当なんだなあ、と漠然と思った。都会には星が見えない。流れ星もないのだろうか。もし、そうだとすれば、流れ星に願いを唱える習慣は漫画の世界だけなのかもしれない。よく、チセが星を見ていた。一番星を探すのを競ったこともある。そこまで思い出して、想は溜息をついた。泣き崩れる両親の前で、一人泣けなかった自分が脳裏をかすめた。
「吉岡先輩〜。皆、行っちゃいましたよ」
 振り向くと石野がエレキギターを担いで、立っていた。周囲を見ると、想と石野以外人の気配はなくなっていた。瞬間、世界から切り離された感じに襲われた。
「もうすぐ学祭ですね。調子良さそうで、なによりです」
 へらへら笑う石野に、想は眉根を寄せた。
「どうしてそう思う?」
「え〜、だって、いい声出してるじゃないですか」
「なあ」
「はい?」
 想は石野の目をしっかり見つめると唇を噛締めて俯いた。ジャケットのポケットから財布を取り出す。
「あれ売ってくれないか?」
「え? あれって〜、もしかしなくてもあれ〜?」
 いつもなら酒が入っても聞きたくない声を何の違和感もなく想は聞けた。
「いいですよ〜。その代わり」
「その代わり?」
 石野の目が湿った。
「僕のために一曲歌ってくださいよ」
 突然の申し出に戸惑ったが、想はアカペラでストリート・ストーリーの“あなた”を歌った。女性が歌っている歌だが、思いついたのがこれだったのだ。
 どこかで聞いたことがあるメロディー。誰かがいつも歌っていた。下手なくせに。音程もろくにとれないくせに。マイクを握り締めると起伏の激しいこの歌を必ず歌った。
 一人舞台を終えると石野が小さく拍手をしてくれた。
「一つ言っていいですか?」
 いつもとは違う優しい声音で石野が呟く。想は呂律の回っている彼の声を初めて聞いた気がした。
「それ、俺の好きだった人がよく歌ってた歌でして。何ていいますか、ふられたんですけどね。その人には一つ離れた兄貴がいまして。これが、曲者なんですわ。でも、その人は兄貴に惚れていましてね。近親相姦だって怒ったりもしたんですけど。その人、言うこときかないんですよ。玉砕しちゃいましたよ。あんな真っ直ぐな目で好きなんだって言われたら、砕けますよ」
 石野が涙を耐えていることに想は気づいた。
「好きなんですって……」
 言われて、想は言葉を返すことができなかった。

 約束ですからと、覚醒剤を想に握らせると石野は駅まで、駆けていった。想は無言でコンクリートに腰をおろして、闇色の空を見ていた。
 外気が痛い。
「愛する人の歌を歌いたいと思った。あなたの前じゃあ、出し切れない全ての想いを。この歌に託そうとしてこの歌を歌う」
 無意識に想はその歌を口ずさんでいた。音程もリズムも外して、口ずさんだ。
 涙が頬を流れた。

 ――五年後
 想はステージの上に立っていた。日本武道館とまでは言わないが、ステージでライブができるまでには成った。一人でのプロ入りではない。想を入れて五人で、バンドとしてデビューをはたした。その中にギター担当で石野もいる。他も大学時代の部活仲間だ。
「じゃあ最後に、オリジナルじゃないんですが、聞いてください」
 想は言葉をきると息をすっと吸い込んだ。心が落ち着いていく。ライブの最後には必ずこの歌を歌う。そう決めていた。オリジナルではない。でも、大切な歌なんだ。この歌を歌っていれば、いつかチセに届くと思うから。
 吸い込んだ空気をゆっくりと吐く。目蓋を閉じて、スタンドマイクを握り締めた。
 ――いつか届けばいい。いつか分かればいい。焦らなくてもいいんだ。
「“あなた”」
 想が言うとタイミングを見計らったように切ないピアノの音が日響いた。

「吉岡先輩。今日も本調子で」
 楽屋に入ると石野が汗だくで笑った。
「先輩はやめろよ」
「いいじゃないですか。俺が好きで呼んでるんですから」
 石野の呂律は達者で、薬をやっていたことは微塵も思わせない。だが、本人は未だ後遺症に悩んでいる。一度、傷つけると中々治りはしないのだ。
「海、行きたいな」
「は? 今冬ですよ」
「ドラエモンがいたらよかったのにな。あべこべクリームで寒さも何のそのだ。今ならすいてるぞお、海」
「お一人でどうぞ」
 苦笑すると石野はギターを片付け始めた。想はそれを笑顔で受け止めた。首にかけていたロケットをはずす。無言で開けると上から石野の声が降った。
「うげー、何入れてるかと思ったらそんなヤバイ物いれてたんですか! 捨ててくださいよ。警察に捕まってもしりませんよ!」
「あの時の俺の形見だから、簡単には手放せないよ」
 言って、想はロケットを閉じた。

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