あの日見たもの
誰でも、幼い頃の思い出のひとつやふたつは持っているだろう。
母の背に揺られた思い出、砂場で友達と遊んだ思い出、ケンカをした思い出……などなど。数え上げたらキリがないという人もいるかもしれない。
もちろん私も、そんな思い出たちの所有者である。
今日は私の思い出たちの中から、一番不思議で、今でも謎に包まれているお話をしたいと思う。
――あれは、私がまだ年端もいかぬ少女だった頃の話だ。
ある夏の夕暮れ時、私は母に頼まれておつかいに行った。向かった先は家から少し離れた商店で、今では数分で行ける距離なのだがその当時はまだ小さかったので、その道のりの長いこと長いこと。
母に連れられてたまに行っていたとはいえ、1人で行くとなっては勝手が違う。
私は、数分もせずに街の中で迷子になってしまった。
自分よりも遥かに高くそびえる塀に囲まれて、おまけに犬には吠えられるし知らない人は大勢いるしで幼い私はパニックに陥ってしまい、泣き叫び、母を呼びながら延々と何処へ続くともしれない道を歩き続けた。
道ゆく人に話しかけられればさらに泣き喚き、問い詰めれば逃げ惑う。
今思えばとても迷惑な子供である。
そんなことをしながら歩いていたため、いよいよ来た道すらも分からなくなってしまった。
ふと周りを見ると迷い込んだのはとても懐かしい感じのする街で、知っているような知らないような、そんな思いを私に抱かせる街であった。……だがその時の私は帰れるか帰れないかしか頭になく、それを考えるのに必死でその街の雰囲気をかすかに覚えている程度なのがとても悔しい。
幼い私がどんなに記憶をたどっても思い出せるのは自分の家の外見と母の顔のみで、途中の道のことなどはすっかり忘れてしまっていた。
私は心底疲れきってしまって、もう歩くことすらままならないような状態で、それでも見知った面影を求めて歩き続けていた。
……そんな時である。
私に話かけてくる人がいた。
「お嬢ちゃん、大丈夫?」
私はその時も見知らぬ人怖さから大声で泣き出したのだが、その人は他の大人とは違って少しも困った様子を見せずに、私に優しく問いかけた。
「おうちは?」
おそらく、わからない、と私は答えたのだろう。
その辺ははっきりしないが、その人はその言葉を聞いて更にこう言った。
「どこにおつかいに行くの?」
しゃくりあげながらも店の名前を告げると、その人はゆっくりと私の頭を撫でながらまるで子供を諭すような口調で(その時は確かに子供だったけれど)私にこう囁いた。
「秘密の抜け道を教えてあげる。
ここの道をまっすぐ行ったところにある空き地の壁に一つだけ穴が開いているの。
そこを通ればそのお店に行けるのよ。」
涙をいっぱいにためた私の瞳を、その優しさあふれる眼差しで見つめていたその人は、私にそれだけ言うと、じゃあ、と言って立ち去ってしまった。
私はただただ呆気にとられるばかりで、お礼の言葉一つ言えなかったのが今でも残念だけど…。
それから、何故かは分からないけど、私はその人を信用して空き地へと向かった。
言われたとおりの場所にその空き地はあった。踏みしめた草の感触も、風景ですらも今、ありありと思い出せるくらいに、確かにそこに存在していた。そして、「壁に一つだけ開いた穴」もちゃんとあった。
私は何のためらいもなくその穴に身を滑り込ませて、奥へ奥へと進んで行った。
突き出す枝や小さく皮膚を切る葉っぱなどは物ともしないで、ただひたすらに、真剣に進みつづけたその先は――
なんと、私が目指していたはずの商店だったのだ。
私はさっきまで泣いていたことも忘れて喜んだ。そして、今通ってきた道はどんなだったろうと思って後ろを振り返ると、そこには亀裂などどこにもないただの塀がそびえ立っていた。
……おかしい。私は直感して、色々と辺りを見まわしてみたが何にもない。商店のおばさんに問うてみてもそんなものは知らないと言われた。
私は途方に暮れたが、いつかまた探してやるんだという意気込みを抱いて、頼まれた品をしっかり買って家路についた(帰りは、店のおばさんに教えてもらってなんとか帰れたのだ)。
そして帰るなり母に今日の出来事を報告した。
母は驚いて目を丸くしていたが、やがて優しく目を細めて私にこう言い聞かせた。
「それはね、普段あなたがいい子にしてるから神様が助けてくれたのよ。
でもね、それを自慢しちゃいけないわ。
そのことはあなたの心の中だけに留めておきなさいね。いい?」
私は大きく頷いた。
そしてそのことをもう誰にも言わないで、自分の「秘密」にしておくことにしたのだ。
あれから何年も経った。
私は年に何回か、幼い記憶を辿って迷い込んだ道を探しているのだが、いまだに道は見つからない。あの時の不思議な人も、あれから私の前に現れることは無かった。
あとで知った話であるが、私が住んでいる土地は少し前に住宅建設の手がかかり、大部分が団地と化してしまったらしい。あの懐かしい街も、もしかしたら団地の下に埋まっているのかもしれない。
私は「幼い頃」と聞くたびにあの出来事を思い出してしまう。
私は一体何処に迷い込んだのか。
私を助けてくれたのはどこの誰なのか。
夢のような話であるが、私には絶対に夢ではないと断言できる。
なぜならば、私は抜け道で身体中に小さな傷を負っていたし、なによりあの草の感触は本物だったから……。
私は、今でも空き地を見ると、壁に穴が開いていないか調べる癖がついてしまっている。
そしてそのたびにため息をついてしまうのだ。
そんな今日この頃である。
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